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歴史(歴史・沿革)

同志社大学設立の理念

新島 襄(1843-1890)

わが国の私立大学は、徳川時代の私塾の伝統の上に、欧米の近代合理主義的大学理念と制度とが接合されて生まれたものがあるが、創立者の建学の精神が伝統的基礎になっていることは、官公立系と著しい対照をなしている。わけても同志社大学は、開学以来、創立者新島襄の精神を教学の生命としてきたことに深い誇りをもってきた。

元治元年(1864)6月、函館から脱国して北米ニューイングランドに着いた新島七五三太が、10年の在米中に得た最も深い感銘は、敬虔厳正な清教徒たちの生活態度と、それを基調にしたカレッジの生活であった。彼はその体験を通して、日本は単に欧米の科学技術の導入にとどまらず、むしろその背後にある精神的基礎に開眼すべきことを痛感し、帰国後キリスト教主義を「徳育の基本」として、高度な学芸を教授する私立大学の設立を志すに至った。こうして明治8年(1875)11月、『同志社英学校』がまず設立されたのであるが、新島の遠大な目標は学問のあらゆる分野にわたって高い水準の教育・研究が行われる総合大学を建設することにあった。『東京大学』(明治10年開校、同19年『東京帝国大学』と改称)以外に大学の設置が認められていなかった当時において、先覚者新島の卓見は注目に値する。

『同志社政法学校』の設立〔明治24年~37年〕

明治21年『同志社大学設立の旨意』を発表して募金運動に着手した新島は、明治23年1月に急逝し、その遺志は後継者に託されたが、同年9月には『同志社波理須理科学校』が設立され、ついで明治24年9月『同志社政法学校』が開設された。その入学案内書に『我政法学校は理財、政治の学科を専修せんとするものの為に設立する所にして其竊かに期する所は左の如き各種の人材を養生せんとするにあり、第一、将来益々理財、政治の学理を研究せんとするもの、第二、将来政治家たり新聞の学理を研究せんとするもの、第三、将来金融、運輸若は商工等の実業に従事せんとするもの』とあり、「政治科」と「理財科」の2科に分かれていた。したがって、今日の経済学部の原型は、『同志社政法学校理財科』に求めることができよう。「教頭」兼理財学教授に、ミシガン大学Ph.D.の小野英二郎が招かれ、経済関連科目としては、理財学通論」「理財学史」「統計学通論」「内外商業地理」「工業経済論」「商業経済論」「財政学」「外国貿易史」「簿記」などが設けられていた。すでに明治11年から同志社英学校において、原書による経済学の講義を開始していた。W.ラーネッド博士が、その講義案を明治18年「経済新論」(宮川経輝訳)、明治24年「経済学之原理」(浮田和民訳)として公刊したことは、日本経済学史上忘れることのできない貢献であるが、政法学校でも重鎮をなしていた。

不幸にしてこの政法学校は短命であった。時あたかも復古主義思潮の高揚期にあたり、それまで着々と伸展しつつあったキリスト教系諸学校は、全国的に衰退した時期であったが、もともと「立身出世」をめざす野心的な青年にとって、東京こそ最適の「遊学」地であり、まして「邪教」の疑惑の晴れない「耶蘇教」の学校で、政治や経済を学ぶ誘因はきわめて乏しかったといえよう。そのうえ新島を失った後の学内の深刻な抗争も手伝って、失望した学生の退学があいつぎ、他方新入生は集まらなかった。

明治27年の第1回卒業生以降5年間にわたる政法学校卒業生総数が僅か19名にすぎなかったことは、上の事情を端的に物語っている。こうして経営不振に陥った政法学校は明治30年以降格下げされて、『高等学部政法学校』に改編されたが、結局明治37年4月をもって廃校され、以後3年制の『同志社専門学校』に吸収合併されてその幕を閉じた。

専門学校令による『同志社大学政治経済部』の誕生〔明治45年~大正9年〕

同志社の校運がようやく好転し始めたのは、明治40年原田助社長以後のことである。原田はよく外交手腕を発揮して、断絶状態にあったアメリカン・ボード(組合派海外宣教協会)との友誼を回復し、校友の組織化、学内の整備、文部省との関係の円滑化に努め、ここにおいて新島襄が念願とした大学設立の気運は一挙に盛り上がり、徳富蘇峰ら校友の協力を得て、ついに明治45年4月『同志社大学』設立の念願をなしとげた。ただし私学の場合は、学制上は依然として専門学校の扱いをうけ大学として認められていなかった。

この専門学校令に準拠する同志社大学には、神学部および英文科とならんで政治経済部が設置され、予科1年半、本科(政治科・経済科)3年で修了し、卒業生は法学士と称せられた。大正4年の資料によると、経済科には日本経済史の開拓者滝本誠一のほか、水崎基一(経済学)、藤谷光之助(貨幣・銀行論)、阿部賢一(経済学)、中川精吉(商業学)がいたが、陣容の薄さはおおえず、河田嗣郎(農政学)、財部静治(統計学)、河上肇(経済学)、山本美越乃(殖民政策)等が京都帝国大学から出講していた。なお大正2年(1913)から大正7年に至る経済科の卒業生総数は179名であり、ごく家族的な規模であったことがしのばれる。

大学令による『同志社大学法学部経済学科』〔大正9年~昭和19年〕

大正7年、政府は「大学令」を公布して大学制度全般を改め、これにより私立大学がはじめて公認されるようになったが、これは産業社会の発達に伴う中級管理者層養成の必要から、私学の拡大を認めたものと解され、反面私学への統制と監督は一段と強化された。同志社もこの気運の中で、大正9年「大学」に昇格した。(同年認可を受けた私大は慶応・早稲田等8私大)学部構成としては、文学部(神学科・英文学科)と法学部(政治学科・経済学科)に分かれていた。この時の総長は、明治・大正期のキリスト教界の代表的人物の一人であり、言論界に重鎮でもあった海老名弾正で、彼は学園に清新の気を吹きこみ、大学にも新進気鋭の学者を多数集め、これによって同志社大学の名声は大いに高まった。以下に当時の法学部専任教員を列挙しておく。中川精吉、浮田和民、阿部賢一、中島重、今中次麿、山口正太郎、和田武、恒藤恭、瀬谷佐次郎、粟生武夫、黒川芳蔵、高木庄太郎、古屋美貞、波多野鼎、石田秀一郎、能勢克男、河原政勝、林要、宗藤圭三、具島兼三郎、瀬川次郎、住谷悦治、長谷部文雄、河野密、櫛田民蔵、永田伸也。

なお大正8年以来学術機関誌『政治経済学論叢』が発行されていたが、大学令による法学部設置に伴い、『同志社法学会』では『同志社論叢』を刊行し、そのレベルの高さが学界の注目をひいた。(昭和24年1月第91号で廃刊) しかしこの躍進期も昭和期に入り、軍国主義の嵐が次第に吹きつのるにつれて頓挫せざるをえなかった。昭和3年(1928)の海老名総長退陣後、法学部内部での思想的対立は次第に激化し、そのため学園を去る教授も続出したが、とくに湯浅八郎総長(第1次)時代(昭和10年4月~12年12月)の学園の受難は甚しかった。昭和16年の対米英戦争以降は、学生も農村に、工場に、長期間動員され、また「学徒出陣」も行われて、教育・研究の府としての大学は一時崩壊に瀕した。学生数の激減により、学部も昭和19年10月には法文学部(神学科・厚生学科・法経学科)に縮小統合され、昭和20年8月ようやく終戦を迎えた。

新制大学への移行と『経済学部』の独立〔昭和23年以降〕

敗戦はすべてを一新した。復員学生は続々と帰校し、戦時中統合された法文学部は21年4月から再び文学部と法経学部とに分けられた。占領政策に基づく諸般の大改革が始まったが、教育界も6・3・3制その他根本的な再編成に迫られた。戦時中米国に留まった湯浅前総長が再び総長に起用され、同志社は全国の大学に率先して新制大学への切り替えをはかり、昭和23年4月、神・文・法・経の4学部(商・工は翌年設置)が発足した。したがって現経済学部は、昭和21年改編された『法経学部経済学科』が昭和23年独立して成立したものということができる。独立当初の教授陣容は、松好貞夫学部長以下、中西仁三、黒川芳蔵、住谷悦治、宗藤圭三、松山斌、松井七郎、黒松巖、岡村正人、今西正雄、中島哲人、相見志郎、岩根達雄ら13名と助手2名である。その後経済学部は、戦後日本の激動と発展に対応しつつ、ほぼ順調に発展して今日に至った。決して坦々とした道のりであったということはできないが、教授陣の充実、学生の質的向上、教育施設の改善、各界での卒業生の活躍等見るべきものがある。いまそれらを詳述することはできないが、若干の 年表 を参考に付しておく。