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教員の現代経済ウォッチング

Vol.26 行き過ぎた「市場原理主義」?

四年ぶりの総選挙をまえに、与党も野党も、そして麻生首相までもが、行き過ぎた「市場原理主義」と一線を画すことに余念がない。

すべてはアメリカ流の市場主義に任せたからだ、金融危機に端を発した世界の不況も、派遣切りが横行したのも、さらには所得の格差が拡大したのも、すべて市場原理主義のせいだという、訳のわからぬ「言い訳」が世間のオピニオンをリードする。しかし、この種の物言いはいかにも奇妙である。
篠原 総一

篠原 総一

立場の問題として考えれば、そもそも、数年前、小泉政権下では、構造改革だ、規制緩和だと、時の首相に追従してきた政治やメディアが、なぜ自由経済路線から政府介入主義に宗旨を変えたのか、その訳は見えてこない。しかし、それよりも、経済学を学ぶ者としては、「市場原理主義」なるものが何を指すのか、一度たりとも定義されたことがない、という事実の方が気になる。

おそらく、個人も企業も、それぞれの利益だけを考えて行動すれば、結果的に社会全体の経済効率も最高に達するという、あのアダム・スミスの原理を批判してのことであろう。しかし、少しでも経済学を学んだことがあれば、アダム・スミスの結論は実に多くの前提条件に依存していることが分かるはずである。

消費者も企業もプライステーカーであること、取引対象であるモノについて、売り手も買い手も「完全な情報」をもっていること、取引を行うためには特段なにの費用もかからない(取引費用ゼロ)などなど、そのリストは延々と続く。

しかし、経済学では、このような条件が成り立たない場合には、政府が取引のルールを作り、それを守らせるために取引を監視する必要であることを丁寧に説いている。いな、むしろ、このような政府の介入の仕方や制度設計こそが経済学の主要な研究テーマだったはずである。

言い方を変えれば、本来は、市場は概ね失敗する、ということである。生産者は自らが作った家電製品の性質を知悉しているが、買い手にはおぼろげな知識しかないのが普通である。この種の情報の非対称性があるとき、どんな取引でも無条件に許されるなら、情報優位にある企業が不公正な取引を仕掛けることは避けられない。だからこそ、社会は、虚偽の広告を罰し、事故発生確率の高い製品の販売を規制し、さらにはクーリング・オフ法があり、公正取引委員会の監視という制度的な仕掛けを用意しているのではないのか。

投機に関しても、自分の資金を使う投機は自らを律する力が働くが、他人から委託された投機は過剰投機になることは、今では学部学生の間でさえよく知られている経済学の知識である。そうであるからこそ、昨年の金融危機は、「市場の失敗」である以上に、「政府の失敗」であったと考えるべきであろう。市場は、普通は失敗するもの、問題は、むしろ、その失敗を防ぐためのルールと管理制度が整備されていなかったからである。

このように、ほんの少し冷静に考えれば、「市場原理主義」批判が、経済学を学んだ者には空疎なものであることが分かる。「行き過ぎた規制」をいかに緩和するかという小泉路線も、逆に「行き過ぎた自由な取引」をいかに規制するかも、何が問題かを冷静に分析してみる、経済学はそのような社会の知恵を生み出す学問なのである。無批判に正義を振り回すまえに、いま少し、経済学を学んで欲しいものである。(2009年8月25日)

篠原 総一篠原 総一
同志社大学経済学部 名誉教授
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